イングランドウイスキーを楽しむウイスキー史探訪スコットランド

三王国戦争後から密造酒時代〜ウイスキーの夜明け

イングランド

アクアヴィテ(生命の水、ウイスキーの原型)を造るために、約500kg(8ボル)の麦芽を修道士ジョン・コーに与える

1494年、スコットランド王国の財務記録に残っている、ウイスキーの歴史を語る上で重要な最古の公文書として有名な一説。

それから約600年後、修道士ジョン・コーの墓が2011年に発見された。

深さ3メートルの地中に埋まった棺には、ジョンの遺骨とオーク製のフラスコが見つかった。

そのフラスコには液体が残されており、分析の結果、穀物由来のアルコールということがわかった。

公的な記録文書によると、彼は王にアクア・ヴィテを献上した後の巡礼の道中に暴漢に襲われ命をおとした。

今回の話は、それから180年後の三王国戦争後から始め、密造酒時代、1823年に蒸留酒製造が王国に認められた年までを描く。

ウイスキー片手に最後まで楽しんでもらえたら何より。

※史実を基に組み合わせた物語として読んでいただけるのがちょうど良い。間違っても、これで勉強しようとはしないでほしい。

三王国戦争とウイスキーの歴史の接点

三王国戦争(又は清教徒革命)は1639年から1660年にかけて、イングランド、スコットランド、アイルランドで発生した紛争・革命の総称。

この時代の蒸留酒はイングランドにおいてはアクアヴィテ(命の水)と呼ばれ、飲酒用以外に医療用・健康用の水として認識されていた。

木樽で熟成させる概念はなく、whiskyという言葉は記録にはまだ残っていない時代。

醸造酒であるビール・エールが貴族から庶民まで広く親しまれていた時代。

三王国戦争中に、軍資金調達などを目的とした酒税法が制定されている。

それまで修道院で主に製造されていた蒸留酒は、国家が管理する課税対象として扱われるようになってくる。

三王国戦争が落ち着いてから約50年後、1707年にイングランドとスコットランドが合併し「グレートブリテン王国」が成立する。

イギリス議会の政治がスコットランドにまで影響を及ぶようになる。

1725年、麦芽税が導入され、スコットランドの首都グラスゴーで暴動が起きるようになる。

この麦芽税の影響で、ビールやエールなどの醸造酒と蒸留酒の製造コストを押し上げ、価格へと転嫁されるようになる。

このことが暴動の要因であり、蒸留酒密造が急激に増えた要因でもある。

蒸留酒は醸造酒と比較して鮮度劣化しにくい、運搬しやすい、カロリー摂取としての役割を持ち、少ない量で酔える上に安いということから、都市の貧困労働者に親しまれていた。

そのことから、課税逃れと農家の収入源として密造酒作りが増加していくことになる。

※別記事 「赤子にジンを飲ませる母親〜ウイスキー前夜編としての密造酒時代〜 」参照https://www.meatballhiroyuki.com/%e8%b5%a4%e5%ad%90%e3%81%ab%e3%82%b8%e3%83%b3%e3%82%92%e9%a3%b2%e3%81%be%e3%81%9b%e3%82%8b%e6%af%8d%e8%a6%aa%e3%80%9c%e3%82%a6%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%82%ad%e3%83%bc%e5%89%8d%e5%a4%9c%e7%b7%a8%e3%81%a8/

スコットランドは山岳地帯が分布しているため、隠れて密造酒を作るのに適した土地だった。

特に、スペイサイドやハイランド地方はイングランドからの税務官的な役人からの調査を免れるのに、もってこいな地形だったため、今日につながる一大密造酒産地だった。

とりあえず今回はここまで!

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ミートボールひろゆき
サラリーマンのオッサンがウイスキーを飲んで感想を述べる動画を主に配信。案件受付中。

コメント

30代後半までビール・黒糖焼酎派だった。
上司の勧めでウイスキーにハマる。
海外ウイスキーの個性の豊かさにハマる。
と言っても、まだまだ経験は浅い。
夢はアイリッシュウイスキー「カネマラ」の生まれ故郷に旅行。
アイラ島、ハイランド地方、いろいろウイスキー絡みの旅行。

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